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ビートたけしの名言「ネットでうまく自己主張できるヤツが偉いみたいな風潮になってるけど、そんなもんウソ」

ヒンシュクの達人(小学館新書)

元祖炎上芸人といえばこの人だと思います。
ビートたけしさんです。

漫才コンビ「ツービート」として、見ているこっちがヒヤヒヤする様なギリギリを攻める漫才で一時代を作った大御所中の大御所です。そんなたけしさんが新刊「ヒンシュクの達人(小学館新書)」でこんなことを言っているとか。

 三鷹の女子高生刺殺事件はさすがに悲惨だった。加害者は元彼氏だったっていうんだけど、ネット上で恋人を作るっていうのは正直どうかしてると思う。静止画像やプロフィールなんかで、その男が信頼できるかどうかなんてわからない。いくらでもウソで取り繕えるもんな。

 実際に会ってみて、表情や仕草を見て、それではじめて「信頼できるか」って判断できるわけでね。写真じゃイケメンでニコニコしてても、実物を見りゃ目が泳いでいたり、神経質に貧乏揺すりしてなんだかおかしいぞってことがよくあるわけでさ。

 美人の女の子がネットに自分の顔を晒してたら、そりゃ悪い男が寄ってくるに決まってる。この世の中、ネットでうまく自己主張できるヤツが偉いみたいな風潮になってるけど、そんなもんウソだよ。一般人は、ネットに情報が漏れるのをいかに防ぐかを考えたほうがいい。

 もっと信じられないのが、店の従業員にクレームをつけて土下座で謝罪させて、それをネット上にアップするヤツだよ。最近、「自分が勝った」と思った瞬間に、相手をトコトン叩きのめしてやろうという感覚の人間が増えたような気がする。自分のほうが有利だとわかった瞬間に居丈高になるんだよな。

 スキャンダルを起こした有名人をネットで批判するヤツラもそうだ。絶対安全圏から、どん底に落とすまで叩きまくる。「もうサンザンな目に遭ってるんだから、この辺でいいじゃないか」とか、「もうこっちの勝ちは決まったから、それ以上ボコボコにする必要はない」なんて感覚はないんだよな。

 人間、自分が圧倒的に優位な立場にいるときに、相手にどう振る舞うかで品性みたいなものがわかる。「溺れた犬は叩け」じゃないけど、弱ってる相手、弱い立場の相手をかさにかかっていじめるのは、とにかく下品なんだよ。

よくよく見ればあまりネットのことに詳しくないおじちゃんが酒飲んでクダ巻いてる程度のものかもしれませんが、言っていることは概ね同意です。

絶対安全圏から、どん底に落とすまで叩きまくる。

ネットの恐ろしさってこういうところなんですよね。叩いている君ら誰なん?っていう。当たり前の正論振りかざしてるけど偉くなったつもりなん?っていう。

この問題は正論と承認欲求という二つの言葉で説明が出来ると思うんですよ。
まあ、もう散々語られつくしているんだと思いますけど。

ネットの魅力は人に見てもらえること

現実世界で目立つということのハードルは大変なことです。素人が街中で大声を上げれば、さげすんだ目でなら見られるかもしれませんが、賞賛はされません。言っていることの中身まで吟味する人はまずいないでしょう。下手すれば捕まります。

また、何か作品や言論を発表し、人に見てもらうためには様々な媒体を活用しなければいけませんが、売り込めば誰でも耳を貸してくれるわけなどありませんから、よほど良いものを作って媒体社に売り込むか、自ら作って配るなどの地道な努力が必要になります。

例えば、音楽業界を例に取ると、メジャーとインディーズに大きくシーンは大別され、社会的に大きな影響力と販売力を得るメジャーになれるアーティストはほんの一握りなわけです。しかも、その中でも有名になれる人というのはさらに少なくなります。そして、多くはインディーズ扱いとなるわけですが、ビジネスとして成立しているインディーズレーベルなど稀で、ほとんどは自費リリースと大差ないわけです。よほどの運とコネがない限り、結局は地道にファンを獲得していくしかないわけです。

もちろん、ネットで目立つというのも決して楽なことではありませんが、現実世界に比べれば圧倒的にその門戸は開かれているといって良いでしょう。

一般人のちょっとした目立ちたがり屋が全世界にネタや言論を公開することができます。ブログを書けば、少なくとも数人には見てもらえるし、うまくすれば数万のアクセスを稼ぐことも出来ます。運よく情報が横に展開してくれれば、その伝播速度は現実世界の「クチコミ」とは比べ物になりませんから、あっという間にちょっとした有名人気分が味わえるというわけです。

また、普段であれば口も聞けないようなタレントや政治家などに直接メッセージを送ることもできますし、偉そうに批判などを垂れることもできるのです。

そういう「無名なオレ」が、たいした努力もなく簡単に舞台の上に立てる。そして思う存分自己主張が出来る。それがネットの最大の魅力なわけです。

正しいという暴力。正論×承認欲求の恐ろしさ

しかし、そこには勘違いも生まれます。ネットで自己主張できる、そしてそれが誰かに見られる、レスポンスがあるということが「自分の発言に影響力がある」という錯覚を生みます。

そして、「確実に」かつ「安全に」そして「徹底的に」自分の影響力を誇示できる瞬間、それが「正論」を宣う時なのだと思います。

正論はもちろん「正しい論」ですから、正しいことなんです。
正しいことには当然多くの賛同が得られます。その賛同を得るという状態は大いに承認欲求を満たし、快感を与えてくれます。そして、再びその快感を得るべく少しでもおかしなものや「異論」を唱えるものに対して、「正論」が振り翳され、弱者は徹底的に蹂躙されるのです。その瞬間、あるべき寛容さは完全に失われています。

正しいことは正しいが故にその隙の無さから凶器になるのです。相手のことを思いやる気持ちややさしさが、正しさとそれを後押しする他人の同調により抜け落ちます。

ビートたけしさんが上げた例をとると、「店の従業員にクレームをつけて土下座で謝罪させて、それをネット上にアップするヤツ」。

確かに、従業員の対応には不足があったのかもしれません。それを指摘して適切な謝罪をさせるところまではいい。もちろん、やりすぎはどうかと思いますが非があったならばある程度謝ることは仕方が無い。しかし、土下座させ写真を撮りネットにアップし、徹底的に蔑もう、勝利を誇示しようという行為は「正論×承認欲求」の暴走に他ならないのではないでしょうか。

そこには「この辺にしとこう」とか「ここまでだな」などという常識的な判断はありません。あるのは勝利した自分を見せびらかしたい、認められて快感を得たいという自己顕示欲のみです。

当然、正論が凶器になる瞬間というのはネットでだけでおきる現象ではありません。現実社会にも起きています。

しかし、「影響力を持った正論家」が自分の影響力を誇示したくてムズムズしているネット社会において、その凶暴性と速度はかつてのそれとは比較になりません。

人間、自分が圧倒的に優位な立場にいるときに、相手にどう振る舞うかで品性みたいなものがわかる。「溺れた犬は叩け」じゃないけど、弱ってる相手、弱い立場の相手をかさにかかっていじめるのは、とにかく下品なんだよ。

この下品さの本性とは、「正論×承認欲求」によるやさしさと寛容性の欠如なのでは無いかと思うのです。 

ヒンシュクの達人 (小学館新書)

ヒンシュクの達人 (小学館新書)